広島の幻のドヤ街・ドンを紹介!!|西日本ドヤ街紹介

そのほか

今回は、前回の関東のドヤ街紹介に引き続き、西日本のドヤ街を紹介したい。
ただ、実際には西日本には大阪の西成(あいりん地区、釜ヶ崎)以外のドヤ街はほとんど残っていない。
今回はすでになくなってしまった、西日本のドヤ街のエピソードもあわせて紹介したい。

 

2000年頃に福岡にドヤ街の取材に行ったら、ちょうど最後のドヤを重機で取り壊している途中で
「ああああ……」
と悲嘆にくれてしまったこともある。

 

名古屋は、名古屋駅の近くに笹島というドヤ街があったが、ポツポツと宿があるものの、ドヤ街とはあまり言われない。

 

そんな名古屋でホームレスから話を聞いていた時に
「広島のドヤがすごかった」
と聞いた。

 

その人は、

「名前は“ドン”って呼ばれてた。ピカドンのドンだ!!」

などと聞いたが、本当かどうだか分からない。2002年に実際に足を運んだ時には、すでにドヤ街は、マンション街に変わっていた。わざわざ広島まで足を運んだので、ガッカリだった。

 

ただ一人、当時から定食屋をやっているという婆さんと会うことができた。
すでに店は畳んでいて、収入は自動販売機のみとの事。常連さんとご飯を食べていた。

西成,食堂

婆さんは昭和23年から現在の37号線沿いで商売を始めたそうだ。原爆投下から3年後である。広島のドヤ街は、投下後すぐにできたそうだ。全国から人夫が集まって、大した賑わいだったそうだ。放射能なんておかまいなしなのだ。

 

当時は大した物資は手に入らず、闇米や闇タバコを扱っていた。専売公社に捕まって怖くて泣いたこともあったそうだ。その後、タバコと酒の取り扱いの許可をとり、なんとかお店は順調に軌道に乗った。

 

当時、一番に取引していたお店は韓国人オーナーの宿兼定食屋のお店。ずいぶん儲かっていたという。

その食堂では米軍のゴミ箱から、豚の顔などを拾ってきて、洗って調理して出していたという。美味くて人気だったそうだ。

 

当時の話を聞いて面白かったのは、当時の広島で、一番たちが悪かったのは関東から来た人夫だというエピソードだ。

「東京から来たっていう人らはみんな荒くて。すぐに刃傷沙汰じゃけん、みんな近寄らなかった」

 

広島と言えば、菅原文太の仁義無き戦いを思い出すのだが、怖いのは関東のヤクザだったのだ。とにかくいきなり刺してくるから怖かったという。お店が血まみれになったこともたびたびあったという。

 

確かに、僕が取材していて厄介な目にあったのは山谷と寿町である。刃物をだされたことも2度あった。西成は荒っぽいイメージがあるがそこまで危ない目にはあっていない。

 

その後、旦那が不動産で失敗して、財産を失った後に他界。しかたなく、人夫相手に、居酒屋を始めたという。
韓国人の一家も、韓国に帰った後、不幸が続いて一家離散してしまったそうだ。

 

婆さんに人生で一番つらかった事は何ですか? と聞いてみると

「甥っ子に騙されて、お金を奪われたこと」

と言っていた。何より心が傷ついたそうだ。人間関係は、時には原爆より心を傷つけるようだ。

 

人生はむつかしいものである。

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