自閉症者のパニックとその支援者|「一番傷つくのは本人」止めるためにはケガもいとわない過酷な現場

障害者ルポ

今回は、東京都目黒区で医療的ケアが必要な児童のための療育施設「ガブリエル」の代表 松尾 由理江さん(46歳)のお話を伺った。松尾さんは、障害者支援者であり、21歳の長女・19歳の次女・12歳の次男の母でもある。そして、自身も、31歳の時に医療的ケアが必要な長男を生後2日で亡くしている。

カブリエル,松尾

 

松尾さんは、緑と花と彫刻の町、山口県宇部市に生まれ育った。2人の兄の下に産まれた末っ子だ。昔は炭鉱の町だった宇部市は、共稼ぎの家庭が多く、松尾さんの両親も共稼ぎだった。父は会社員、母は看護師だった。看護師の母は多忙だったが、3人の子どもを愛情深く育ててくれた。だが、幼少期の松尾さんは、母が忙しく家にいないことを寂しいと思って育った。夜勤の日などは、泣きながら母を送り出した。始めは、母と同じく看護師を目指そうと考えていた。だが、中学生くらいのとき、自分と同じような思いを自分の子にはさせたくないと思い、保育士を目指すことに決めた。そして、短大は保育科社会福祉コースに進学した。

 

在学中、保育士になるための実習をしていた。通常の保育園はもちろんだが、社会福祉コースだったため、療育機関での実習もあり、そこで障害のある子どもたちに触れることとなった。

 

そのセンターで、4歳の自閉症の少年(ハルト君)と出会う。ハルト君はまだ4歳だったこともあり、しゃべることはできなかった。1週間の実習期間、松尾さんはハルト君のトイレットトレーニングを担当した。実習の間、ハルト君は松尾さんに非常になついており、お昼寝の時間に目が覚めて、松尾さんを探し泣くこともあった。松尾さんを見つけると、泣きながら走ってきて胸に飛び込んできた。松尾さんは彼を「ハル君」と呼び、熱心に介護した。実習の最終日、ハルト君は自分でトイレに行くことができた。その姿に心が揺さぶられ、松尾さんは涙を流したという。担当の相談支援員に報告したが、支援員も一緒に涙を流して喜んでくれた。松尾さんが障害者支援を続ける原点となった出来事だった。

 

その後、松尾さんは暇さえあれば、その施設にボランティアで通った。卒業当時は空きがなかったので、就職はできなかった。だが、2年目に職員の空きが出て、当時は「精神薄弱通院施設(今の療育センター)」と呼ばれていたその施設に就職することとなった。

 

「ひどく差別的な名前でしょう。でも、昔はそう呼ばれていたんです」と松尾さんは語った。

 

20代の松尾さんは、まだ知識や経験がなく、もっと勉強したいと思った。モンテッソーリ教育の学校に通い、青年海外協力隊に応募するなどどん欲に勉強した。23歳のとき、青年海外協力隊の応募に通過し、フィジーでの障害者支援が決まった。その準備をしている最中、松尾さんは当時付き合っていた恋人との子を妊娠した。松尾さんはフィジー行きを諦め、出産と同時に東京で暮らすこととなる。

 

第一子出産後、保育士の資格を活かし保育園で働いた。だが、どうしても福祉の世界に戻りたかった松尾さんは、ボランティアで療育センターMに通い続けた。そして、28歳のとき、職員の空きが出たタイミングで、非常勤職員としてMに就職した。Mは50人程度しか通う児童もおらず、週2~3日の手厚い療育を行っていた。とても充実した日々で、とにかく仕事が楽しかった。3年間働いた後、長男の妊娠を機にやめることとなる。当時はMには、非常勤職員の産休や育休はなく、妊娠したらやめざるを得なかった。

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