【挫折を知った教員時代】
「小学校の教諭になった一年目は円形脱毛症になりました。周囲に適応できないことで悩んだのではなく、大学まで勉強で苦労したことのなかった私が、就職した途端、仕事が全くできないことがショックでした。自分に幻滅してしまったんです」
彼女は未診断の発達障害者だが、大学までは優秀な成績を納めていた。就職後にマルチタスクの環境にさらされた途端、仕事でつまずいた。学生時代は成績優秀でも、社会に出たとたん、仕事ができずに、発達障害との診断が下るケースはよく耳にする。彼女も社会人1年目にしてつまずいた。
「発達障害かどうかの診断は受けていません。どうせ診断が下ると分かっているのに、わざわざ診察を受けるのも面倒くさいので」
彼女は興味があることに関しては、人の何倍も活動的だが、興味がないことに関しては、全く興味がないのだ。飽きてしまうのだという。
【ミスを補うために2時間睡眠の日々】
「ADHDの傾向が強い私は、新しいものは大好きなんです。なので、生徒に課題のプリントを作ってやらせることは大好きでした」
だけど、その後に採点するのは、同じ作業の繰り返しなので、半分もいかないうちに飽きてしまう。なので、学期末に通知表を渡す際、通知表と一緒に10枚くらいの採点し損なっていたプリントを一緒に返却することもざらだった。
「親からクレームが入ることもありましたが、熱心な先生だと思ってくれる親御さんもいたので、そこは問題にはなりませんでした。だけど、致命的に事務作業が苦手だったんです。例えば、出席簿がつけられない。丸をつける行が一行ずれてしまってやり直しになる」
在職期間の4年間はミスの多さを補うために、2時間睡眠で働いていたという。そんな話をするときも彼女に悲壮感は一切ない。とにかく明るい女性なのだ。私はその明るさの源を知りたくなった。彼女は4年働いたおりに結婚退職することになった。2時間睡眠の生活も限界で、退職することで事務作業から解放されるのであれば、教職に未練はなかった。念願の長男が生まれ、翌年には次男が生まれた。次男は目が合わず、言葉も遅かったため、病院を受診したところ、最重度自閉症と診断された。彼女は息子の症状が少しでもよくなるように、小学校入学するまでは母としてできる限りのことをしようと決めた。自宅から1時間以上かかる療育教室に通わせた時期もある。
「次男は、生活していても全く目が合いませんでした。ただ部屋をウロウロと歩き回る様子を見て夫と『まるで魚みたいだね』と話していたこともありました」
だけど、次男の様子が変わることはなかった。支援学校入学が決まったと同時に、彼女の中で区切りがつき、初めて次男の障害を受け入れられたという。教諭として不向きな事務作業で疲弊し、育児に追われ続けていた彼女は、子の小学校入学を機に、自分のために生きると決めていた。
「私は人に対しても、物に対しても執着が薄いので、受け入れられたのかもしれません」
彼女がギター好きということもあり、飄々とした雰囲気は、まるでムーミン谷のスナフキンのような雰囲気を持っている。執着の薄さから感じるイメージなのかもしれない。
【思ったことが口から出てしまう思考のダダ漏れ】
発達障害の人には、一見してはわからないが、多くの人とは違う“感覚のズレ”がある。もちろん誰しも一人ひとり“感覚のズレ”はあるが、発達障害の人はそのズレが大きい。その“感覚のズレ”が原因で誤解をされ、トラブルを引き起こすことも多い。彼女にはどのような“ズレ”があるのか聞いてみた。