発達障害の彼女の世界観 ~1回ごとにリセットされてしまう人間関係~

障害者ルポ

【1回1回が初対面】
元々、人に対する執着が薄い彼女には、友人と言える人はいない。だけど、彼女は全く孤独に見えない。人は人とコミュニケーションを取って生きていきたいのではないか。人間関係は人生を豊かにするものではないのか。
「私は会社の上司などは、序列がはっきりしているし、『この立場の人にはここまでしか言ってはいけない』というのが分かりやすいので付き合いやすいです。それでも言っていいこと悪いことを理解できるまでに4年かかっています。最近、やっと、人は何を言ったら怒るのか、どんな対応をしたら怒らないのかが分かってきたところです」
会社の人間関係とは違い、友人関係には「目に見えない序列(カースト)」があり、メリットでつながっている関係ではない。抽象的な概念を理解するのが苦手という特性を持つ発達障害者にとって、友人関係というものは分かりにくいものなのだろう。

 

「中学校の友人だったら中学校を卒業したら関係は終わりです。継続して続いている友達はいません。友達というものがよく分からない」
その場の衝動で刹那的に生きている彼女は、人の名前や顔もすぐに忘れてしまう。
「相手との思い出が蓄積していくわけでもありません。頭の中は常に高速回転で他のことを考えています。相手の名前や顔を、完全に忘れてしまうのではなく、思い出すのに1日くらい時間が必要なだけなのですが」
それくらい頭の中の情報が整理されていない。相手の名前をゴチャゴチャな頭の中から検索しているような感覚に近い。クルクル変わる彼女の表情からは、目まぐるしく思考を頭で巡らせている様子がうかがえる。
「なので、関係は一回一回が初対面のような感じです。そのうちに思い出すのも面倒くさくなってしまう。40歳になった今でも友達というものがよく分かりません」
人というのは、その相手を誰だと認識して、その特定の相手とのエピソードや思い出の蓄積により愛着も情も沸くものではないか。彼女が言う通り、名前も顔も思い出すのに1日がかりであれば、面倒くさくもなるし、深い関係を築くことは難しいだろう。それでも彼女が孤独を感じないのは「人に対して執着が薄いから」だという。発達障害の中でも、ASDの傾向が強い人には、そもそも人とコミュニケーションを取ることに関心が薄く、他人に興味がないというタイプの人がいる。彼女はADHDとASDの併存型である「ハイブリット」といわれるタイプの発達障害なのだろう。
彼女は言う。「田口さんの顔も明日になったら忘れると思います。再会したら、こんな顔していたっけと思い出すのに1日がかりです。その日が初対面のようなものですよね」

 

【ファーブル昆虫記のような視点で人を見ています】
そんな彼女だが、決して人に全く興味がないわけではない。だけど、興味の持ち方が、エモーショナルなものではないのだ。
「人に対する興味は『ファーブル昆虫記』のような感覚に近いです。昆虫好きな人は、昆虫が好きなのに標本にしたりしますよね。私も人に対して、そんな感じです。『この人は私のことが好きなんだな』『この人は音楽が得意なんだな』と虫ピンで留めて、分類して楽しんでいるような興味です。そこに愛情があるかと言ったら違う気がします」
夫に対しても「この人と一緒にいると楽だ」という気持ちはあっても、それが愛情なのかというとよく分からないという。
「なぜ私が人間関係で傷つかないかと言えば、昆虫が自分の方に飛んできても、驚きはしても、傷つかないでしょう?それと一緒で、私にとって人は観察対象なので、何を言われても傷つかないんです」
彼女の強さというか明るさの源はこういったところからくるのだろう。
取材しているうちに寂しい気持ちになった。なぜなら、彼女に対して、友人と話しているような錯覚に陥っていたからだ。だけど、彼女にとってみれば、筆者も昆虫の標本と大差ない存在なのだ。
「40年生きているので、相手がどういう反応をすれば喜ぶかは分かるし、(定型発達者に)擬態することはできるんですよ」
無邪気な笑顔で彼女はそう答えた。

 

これが彼女の世界観なのである。昔観た「50回目のファースト・キス」という映画を思い出した。この映画はラブ・コメディなのだが、交通事故に遭った女性が事故前日までの記憶が全て一晩でリセットされてしまうという短期記憶喪失障害になってしまう。彼女を愛する彼は毎日、初対面の場面からやり直し、毎日「ファースト・キス」をするという内容。
そんな愛の形があるように、世界観も様々だ。

 

【友達になるのは申請制】
彼女のあっけらかんとした明るい笑顔を見ていると、それでもいいじゃないか。そんな友人がいてもいいじゃないかと思えてきた。「友人というものはよく分からないので、申請された場合のみ友人として認定する」というルールを持っている彼女に、友達申請をしてきた。彼女からは、認定カードを受け取った。そんな友人関係も面白いではないか。筆者の中の発達障害者へのイメージは彼女のお陰で、コミカルなものに変わった。そして、「自分の世界観に合わせろ」と迫る”自分は健常者と思っている人たち”や社会側の傲慢さも同時に感じた。彼ら彼女らは全く違う世界観に生きているだけなのだ。

 

この記事の内容はもちろん発達障害者全般に当てはめられる内容ではないけれど、同じ発達障害といってもひとくくりにはできず、多様性があるのだ。それは”自分は健常者と思っている人たち”にも多様性があるのと同様に。
「友達認定カード」を名刺入れに入れ、前澤家を後にした。子供の頃に友達と交換した「プロフィール帳」を手にした時のような、懐かしく暖かい気持ちになった。またいつか初対面の友人として、彼女に会いたい。
※内容は事実関係に基づいていますが、個人特定を避けるため、人名・地名・関係者名などは個人情報漏洩を避けるため一部事実と異なります。

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