「健常者との闘い」にもう意味はない。「勝ち取る」から「一緒に創り出す」未来へ

僕が生まれるよりずっと前、1957年11月3日。
「青い芝の会」という障碍者、特に僕と同じ脳性麻痺のひとを中心とした団体が発足した。
その後いろんな紆余曲折を経て、この会は社会運動に積極的に関わるようになり、特に神奈川を中心として活動を重ねていった。
そんな1970年に、我が子を殺害した母親に対して、その子がいわゆる「重度心身障碍児」だったことから「減刑嘆願運動」が起きたとき、青い芝の会はそれに猛抗議した。
さらに1977年、彼らが今度は「川崎バス闘争」(川崎バスジャック事件)を起こしたことも相まって、この会は全国的な知名度を一気に高める。
要するにこれは、自分たちで自由に外出することもできない現状に対して、「障碍者が一斉に、大勢で、無理やりにでもバスに乗ろうとした」ってことなんだけど、これが「障碍者と健常者が、ともに暴力までも含む実力で争う」なんてところまで発展したなんて、今じゃ信じられないくらい凄まじいことだと思う。
もちろん、この事件は多くの非難も受けた。まして
一、われらは、強烈な自己主張を行なう
一、われらは、愛と正義を否定する
一、われらは、問題解決の路を選ばない
なんて言ってるならなおさらだ。だけどこういう「過激さ」は、当時の時代背景とか全体的な風潮を加味して判断されるべきだし、実際こういう運動が、その後いろんな制度を変え、生み出し、今の僕の生活を支えてラクにしてくれていることも、確かな事実なんだ。だからこういうひとたちが、文字どおり「健常者との闘い」によって戦果を勝ち取って、そうやって自分たちだけじゃなく後年の僕たちのことを助けてくれたこと、それ自体には僕も感謝している。そしてさっきも言ったように、それはあのときあの時代には、「時代に合っていた」んだろうとも思うんだ。
ただそういう「実績」があることも大きな要因なんだろうと思うけど、当時をよく知るひとたちや、そういう思想・実践に強い感銘を受けたひとたちが今でも、
「私たちはね、大きな声を上げ続けなきゃいけないのよ!」
「健常者は俺たちの気持ちなんかわかんないんだから、自分で主張してかないとダメなんだよ!」
「中途半端に妥協したり日和ったりしたら結局なんにもならないんだから!」みたいなことを言うんだ。
っていうかそういうひとたちからは、僕ってけっこう「怒られる」んだよね。極端に言えば「お前はどっちの味方なんだ!」みたいなね。でもさ、さっきから言ってるとおり「当時は有効な戦略で、実際に成果も出た方法」だとしてもさ、それが2020年、令和2年の今にさ、そのまま合うと、合ってると思う?
昔は確かに、「健常者から権利を勝ち取る」って考えでもよかったかもしれない。健常者はなんにも考えなくてもバスでも地下鉄でも乗れるのに、障碍者は乗れないのが当たり前だった。階段はいくつもあるのに、エレベーターはひとつもなかった。健常者は未来に希望を持って生き生きとしてるのに、障碍者は隠され疎まれて鬱々としていた。そんな状態だったって言うならさ、「徹底的に闘って、相手が余るほど持ってるものを、なんとしても勝ち取る」っていうのもありだったと思う。それだけ、「圧倒的格差」があったときならね。
だけど今、この2020年の日本で、健常者と障碍者の間に、そんな「圧倒的な格差」なんてあるのかね?
健常者は「自分たちだけ余るほど持っていながら、ちっとも分けてくれない」のか?
そもそも健常者は、今この瞬間、「未来に希望を持って、生き生きとしてる」のか?
そんなことないんじゃないか?少なくとも僕はさ、「今は健常者だろうが障碍者だろうが、もっと言えば男だろうが女だろうが白人だろうが黒人だろうがさ、ぶっちゃけそんなことには関係なくみんなそれぞれに、けっこうしんどい』って感じなんじゃないの?」って、そんなふうに思ってるんだけど、違うのかね?
だからさ、もしみんながだいたいそんなふうに思ってて、自分だって余裕なんかなくて、なんとかかんとか生きてるってときにさ、
「お前ばっかりズルい!こっちにももっとよこせ!」
みたいな感じでグイグイと、まして「敵対的」(攻撃的)な感じで来られたらさ、
「怖っ、怖いってほんと。あんまり、関わらないほうがいいな……離れとこ」
みたいな感じで、「ドン引き」されるんだけなんじゃないかって思うんだよね。
はっきり言って、僕ならそうなると思う。じゃなきゃ「うるせぇな!こっちだってラクじゃねぇんだ!自分のことばっか言ってんじゃねぇ!」
って余計な反撃を喰らうかもしれないけどさ、これってどっちにしろ、誰のためにもならないんじゃないかって、そう思わない?
少なくとも僕はどうしても、そう思っちゃうんだよね。こんなんだから、なおさら怒られるんだけどさ。
でもそんな僕としては、「健常者の闘い」っていうような方向性には意味がない、少なくとも、もう意味を失ったという、確信に近い想いがある。
しかもさ、健常者/障碍者っていうのを、社会的強者/社会的弱者とか、社会適合者/社会不適合者とかに置き換えて考えてみたらさ、そんなの状況によって、どの要素に着目するかによって、いくらでも換わるものでしょう?
たとえば僕自身、「手足がうまく動かせない」とか、「空間認知がうまくできない」それに「アスペルガー(ASD)傾向がある」とかさ、そういうところで見たら確かに「障碍者」に分類できる。
でも僕は少なくとも今のところ目が見える「晴眼者」だし、耳が聞こえる「健聴者」だ。それに「口話」もできるし、「触覚」も「痛覚」もあるから、身の危険を自覚できる。だからその点から見たら、僕は「健常者」だとも言えるんだ。これは、確かな事実なんだ。だからそういうふうに考えれば明らかに「僕たちの言動・行動には、常に『ブーメラン』になる可能性がある。だから他者に一方的に詰め寄って刃を突きつけたら、自分もいずれ必ず誰かに刃を突きつけられることになる」と言えることがわかると思う。だからそれは筋悪としか言いようがない。結局みんなで首を絞め合ってるようなものなんだから。
それにどう考えたって、独りじゃ世界は、社会は変えられない。
だったら僕たちがするべきことは「手を組める仲間を少しでも増やす」ことで、「どこからどこまでなら手を組めるか、その範囲を少しでも拡げていくこと」だと思う。それは「必要以上の妥協」なんかじゃない。「屈辱的な屈服」でもない。
それにどうしても譲れない部分は、譲らなくたっていい。
考えが違うなら、それはちゃんと伝え合えばいい。
だけど相手をよく見ずに「一方的なレッテル」で決めつけたり、「いずれは敵になるひとだ」っていう前提で関わったりしたらさ、自分が今までされて嫌だったことを、そのまま自分がしてることでしかないじゃないか?それに「ほんとは味方なのに、味方になってもらえるかもしれなかったのに、そんな味方を、敵と誤解する」なんて、そんな哀しいことはないじゃないか?
だから僕は、僕よりずっと前に、ある意味では確かに「もっともっと大変だった時代」に、精いっぱい全力でがんばってくれた先輩たちに感謝しているからこそ、その後に生まれた僕はその「恩恵」を噛み締めつつ、今の時代に適したやりかたを模索して、僕なりに実践していきたいと思っているんだ。
それはいずれにせよ「社会を変えるため」なんだ。その部分は、なにも変わってないんだ。そのことを、わかってもらえたら嬉しいと思う。
もう権利は、しあわせは、そして未来は、誰の手にも握られてない。
もうそれは「勝ち取る」ものじゃない。「一緒に創り出す」ものだ。
そもそも闘ってぶつかり合うのは、しんどいじゃん?だから疲れたらいったんゆっくり休んでさ、その蓄えた力をもっといい感じに活かしたらいいんだよ。
それにほら、
「早く行きたいなら、ひとりで。遠くまで行きたいなら、みんなで。」
(If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.)
って言うでしょう?
それならなおさら、「みんな」は多ければ多いほどいい。
闘ってる場合じゃない、一緒に行こう。
だいじょうぶ、そしたらきっと行けるよ。
もっともっと遠くまで、行けるんだよ。