小学校の時、「障害者はいらない」という作文を書き、障害者を「イヌ地雷」のように軍事利用することを考えていた。しかし、この考えのおかしさを否定しようとすればするほど、第二次世界大戦中の「特攻隊」はどうだったのか、90年代までは国が障害者に対して強制不妊手術をしていた歴史があり、「実は国を挙げてやっていた」ことでもあると、私たちに対して跳ね返ってくる。
ラストのほうで、渡辺一史氏と雨宮処凛氏の対談が掲載されている。
ここは非常に大切な部分だ。
渡辺一史氏の発言を抜粋する。
ADHDではないかという精神科医もいますし、アスペルガーの傾向があると思える部分もあるでしょうが、僕自身は彼を典型例ではなく、ボーダーではないかと思っています。
でも、そんなことをいえば、僕自身もボーダーですし、物書きやアーティストなんて発達に偏りがある人は多いでしょう。
要するに「自閉症スペクトラム(連続体)」という言葉があるように、自閉症の人たちと健常者は連続線上でつながっていて、植松被告も僕も障害者寄りに位置している点では、そう変りないと思います。
やまゆり園の支援のあり方が障害観に影響を与えたのは間違いない。
元利用者の松田智子さんは津久井やまゆり園の支援記録では「突発的な行動もあり、見守りが難しい」という理由で、車いすに長時間拘束されていたことが明らかになっている。だか、現在の施設では拘束を解かれ、散歩やカフェでの食事、地域の資源回収の仕事までできるようになっている。
やまゆり園での姿を見ていたら「そういう姿を見ていたら、この人たちは生きる価値がないと自分だって思うかもしれない。その意味では植松被告の見方は間違っていないんじゃないか」と答えた元利用者家族もいた。
やまゆり園は知的障害の中でも特に対応が難しい「強度行動障害」のある人が多い施設。
強度行動障害の人たちとどう付き合っていくかも一つのポイントだろう。
やまゆり園が全国の入所施設と比べて特別にひどいかと言えばそうではない。日本の施設の中ではスタンダード。県立なので、労働環境はスタンダートより少し上。介護職としては恵まれている。
彼が発達障害(自閉症スペクトラム)のグレーゾーンなのであれば、彼自身が、他人と共感しあえない生きづらさを抱えていたことだろう。
彼の主張は、その前提から間違っていることを指摘する人があまりいない。(中略)例えば、植松被告は「意思の疎通のとれない障害者は安楽死させるべきだ」という主張から事件を起こしましたが、彼は「安楽死」という言葉を間違って使っています。というのは、現在オランダやスイスなど安楽死を合法化もしくは容認している国がいくつかありますが、そもそも安楽死とは、本人の明確な意思表示があって初めて認められるものなのです。「意思疎通のとれない障害者」を一方的に安楽死されるなどということは、安楽死が合法化された国であっても不可能です。過去にナチス・ドイツがそれを行っていましたが、それは「安楽死」ではなく、今では「虐殺」と呼ばれていますよね。
日本の年間の障害者福祉予算は、国の一般会計のたかだか1%くらいで、さほど大きな額ではないのです。国際比較をしても、日本の障害者関係の公的支出(対GDP比)は、OECD諸国の中できわめて低い水準にあることは専門家の間では常識なんです。さらに言うと、障害福祉予算というのは、別に障害者が飲み食いして懐に入れて消費しているわけでは全然なくて、その大部分は健常者(介護者)の給料になっているわけですからね。
障害のある人たちがいるおかげで、そうしたシステムが発達してきたことを考えると、逆に障害者の存在が、社会を助けてくれているとも言えるんです。
私は読後、メディアの人間として、植松死刑囚の考え方は根本から間違っていることをしっかり発信していかなければならないと思った。そして、植松死刑囚が決して特殊なモンスターではなく、発達の偏りを抱え、本来ならば福祉につながるべき「人間」だったということも忘れてはいけないと思う。
私は弊社立ち上げの際の思いをもう一度、思い出し、大切にしていきたいと思った。
こちらも合わせてお読みください
日本の精神医療と脱施設化の課題 ~隔離の歴史と障害者への根強い偏見~