津久井やまゆり園ができたのは、1964年である。
裁判後、やまゆり園について「ああいう檻に入れてもらって、家族はみんな助かったんだから」と入所者の親が口にするのも耳にした。
やまゆり園ができて半世紀以上。70年代に障害者運動が本格化し、脱施設化、地域移行が進んできた。06年度に施行された障害者自立支援法(現・障害者総合支援法)では、障害者が地域社会で暮らすことを国が支援する、と明確に打ち出している。事件が起きる3か月前の16年4月からは障害者差別解消法も施行され、「合理的配慮」という言葉も注目されたりもした。(中略)交通の便は悪く、辺りにコンビニさえない集落にぽつんと建った障害者施設。この事実こそが、障害者をめぐる現実を雄弁に語っている気がした。
この事件は私たちが重度障害者もっと言えば「弱者」をどのように社会の中で受け入れていくのかを問いかけていると思った。
裁判の争点は、植松死刑囚が大麻精神病で、刑法39条の「心神耗弱者」に当たるか否か。
植松死刑囚は重度障害者を「心失者」と名付け、日本の財政を救うために事件を起こしたと語る。
植松死刑囚は12年12月から「津久井やまゆり園」で働き始め、勤務を始めた頃は、障害者を「かわいい」と友人にも話していたが、本書ではその「かわいい」の意味が明らかとされている。
植松死刑囚が「かわいい」と言っていた障害者は、同僚の話から「ありがとう」と感謝の気持ちを述べる障害者であり、かと言って、大切にしていたわけではなかったことが後に分かる。「役に立ちたい」という思いが人一倍強い植松死刑囚にとっての不満は、「感謝の言葉がない」「報われない」「給料が安い」と不満を漏らす彼にとり大きなポイントだっただろうと考察している。
なので、植松死刑囚は事件当日も、施設職員に「話せるか否か」を確認しながら「話せない」重度障害者を選び、執拗に刺している。
また、重度障害者施設で働きだした植松死刑囚は最重度の成人の障害者を受け入れる入所施設で、初めて「1日中、車椅子に縛り付けられ」「ドロドロの食事」を流し込まれる入所者を見て、ショックをうけたはずだ。
私自身が特養老人ホームで初めて、そういった状態の老人の介護にあたったとき、ショックを受けたのでこの気持ちはとても理解できる。私にはその気持ちを共有してくれる先輩たちがいた。だが、植松死刑囚にはいなかった。「やばいですよね」と同僚に言っていたのは、死刑囚なりの「この現実をどう受け止めたらいいか」というSOSではなかったかと筆者は考察する。
これは介護従事者であれば、理解できる感覚なのではないか。
裁判長から「世界情勢に問題がなく、お金と時間の問題がクリアされていたら事件は行さかったか」と問われ「その通りです」と答えた植松死刑囚。弁護士から「有意義な人生を別の形で送れていたら(事件を)起こさなかったか」と聞かれ「興味なかったと思います」とも答えている。
経済的な不安もあった。
植松死刑囚は、3月に生活保護を申請し、4月からは失業保険で生活する。弁護士の「いつ頃この事件の計画を立てたか」という質問に「10月までには事件を起こそうと思いました。自分の貯金残高もあるし」と述べている。
植松死刑囚は、2016年中旬ごろに衆議院議長公邸を訪れて、衆議院議長の大島理森に宛てた『犯行予告』とされる内容の手紙を職員に手渡した。そのことにより、保護措置入院させられている。精神科医の斎藤環氏は、措置入院後の孤立が彼を追い詰めたのではないいかと指摘している。
入院させたことで精神障害者というレッテルを貼られた植松死刑囚。貧困層の人々が生活保護層をたたくのと同じように、自分が非常に劣位に置かれている、弱者の立場に置かれているからこそ、自分より弱者を叩きたい、排除したいという発想を持ってしまったのだと思います。
ここに植松死刑囚が抱えていた孤独・孤立・無力感を感じた。
著者は植松死刑囚に面会するまでは、「妄想状態の深刻さ」に驚いていた。だが、面会を通じて、その見解は変わる。植松死刑囚が決して、自分たちとはかけ離れた「モンスター」なのではないという風に。