「しょうがい」をどう捉えるか? 医学モデルと社会モデル、そして相模原障害者施設殺傷事件

コラム

じゃあこの医学モデルが唯一の見かた・モデルじゃないって言うなら、他にはなにがあるのかっていうと、それが「社会モデル」と呼ばれるものだ。これはさっきの医学モデルが「しょうがい=個人的なダメージ=医療的課題」として捉えるのに対して、「しょうがい=個人と社会の間の葛藤・摩擦・不調和=社会的課題」として捉えるところに特色があると言えると思う。つまり今まで伝統的で唯一だと思われてきた見かた・価値観を「医学モデル」として相対化して、「社会モデル」という新しいモデルが提唱されてきたっていうのは、結局「しょうがいは個人的な問題なのか、社会的な問題なのか?」という問いが提示されてきたってことでもある。
もちろん、個人的な問題は社会的な問題でもあるし、社会的な問題は個人的な問題でもあるんだから、これは完全に独立した二者択一ってわけじゃない。でもやっぱりこの問いは大きな意味を持っていて、それにひとりひとりが、そしてみんながどんな答えを出すかっていうのは、すべてに大きな影響を及ぼすことは間違いないと思う。それにここまでを踏まえたうえで、「今の日本は、医学モデル・個人モデルの影響力のほうがずっと大きい」ということもできると思う。
ただ、ここまでの話はすごく大切なことではあるんだけど、ある意味「基礎知識」であって、「準備運動」みたいなものに過ぎない。僕がほんとにしたい話は、ここからなんだ。

 

2016年7月26日未明、神奈川県相模原市で、「戦後最大級の大量殺人事件」が起きた。現場となったのは「知的障碍者福祉施設」として運営されていた津久井やまゆり園で、そこにいた入所者19人が刺殺され、他にも施設職員さんも含め多くのひとが重軽傷を受けた事件だ。
この事件の細かいあらましは、僕がここで繰り返す必要もないだろう。ただやっぱり改めて注目する必要があるのは、これが「単なる凶行・暴走・前後不覚の狂気」によって起こされた事件じゃなく、「明確な目的意識と思想を帯びた行動」だったという点だと思う。

じゃあ、その背景にあった「思想」とはなんだったんだろう?それは植松聖被告本人が語った、

障害者なんていなくなればいい
障害者は不幸を作ることしかできません

という思想だ。そしてその「問題解決」のため、彼はこの行動に出たというわけだ。

ここで、さっきまでの話を思い出してほしい。彼のこの行動はある意味、「医学モデル・個人モデルの歪みが最悪のかたちで顕れた結果」とは言えないだろうか?もし彼が「しょうがいの周りには不幸の種がいっぱいある」と言うだけに留めてたなら、僕もそこまでは同意できる。言わずと知れたベストセラー『五体不満足』のなかには、

障害は不便だが不幸ではない

という言葉があって、ヘレン・ケラーも似たような言葉を遺したと言われている。これはある部分まではそのとおりだとも思う。でもそれでも僕としては「多少の不便がすぐに不幸につながるとは言えないとしても、『たくさんの不便が降り積もっていって、しかもその解決の見通しが立たないまま、孤立感だけが深まっていく』なんてことになったら、それは確かに不幸だ」とは言っておきたいと思う。だからその意味で、しょうがいの周りには不幸の種がいっぱいある。それは事実だと思う。だから僕はそこまでなら、彼に共感できる。 でも彼は、その解決の手段として、しょうがいを「個人的な問題」に帰着させ、「障害者を殺すことで障害をなくせる」と思い込み、それを実行した。そこに、彼と僕の明らかな断絶がある。そして僕は、彼はやっぱり間違っていると思う。

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