「しょうがい」をどう捉えるか? 医学モデルと社会モデル、そして相模原障害者施設殺傷事件

コラム

ただもうひとつ大切なことは、彼は「現場を知らないやじうま」ではないってことだ。それどころか彼は、かつて津久井やまゆり園の職員だった。彼はしょうがいの問題を考えたことのないひとではなかったし、机上の空論を捏ねくり回して暴発したわけでもないと思う。ただ彼は最終的に、「医学モデル・個人モデルを、これ以上なく歪んだかたちで採り入れて実践した」ってことなんだと、僕は思う。そしてそれは、僕からすると、「安直な答えに逃げた」んだと思う。

 

彼は本当に、世界をよくしようとしたのかもしれない。でもだったらなおのこと、それを「個人の問題」とだけ見るのは、逃げだ。もっと言えば、怠けだ。それはこの事件が起きたとき、あるいは「優生学」に絡む議論のときに、必ず引き合いに出されるナチス政権が、「ユダヤ人を撲滅すれば世界はよくなる」と思い込んだことによく似ていると思う。そしてそれは本当は、思い込みでも誤解でもない。「逃げ」なんだ。「怠け」なんだ。僕はそう思う。

 

もし本当に世界をよくしたいんだとしたら、その大変さを直視しないといけない。世界がこんなふうなのは、特定の誰かのせいなのか?特定の集団・国のせいなのか?ユダヤ人、障害者、あるいは総理大臣、大統領のせいなのか? そんなわけないじゃないか。もしそんなことが原因なら、もっと簡単に、もうとっくの昔に、世界は変わっている。だけどそういう医学モデル・個人モデルに逃げたほうが、ある意味ずっとラクだ。単純だ。わかりやすいんだ。だからそれが間違ってると薄々気づいていても、それに逃げる。それを怠けだって言ってるんだ。

でも逃げたくなるのもわかる。怠けたくなるのもわかる。だって、こういうことを社会モデルで捉えるってことは、「それが本当に大きな問題だってことを、直視する」ってことだからだ。それは、大変なことだ。疲れるし、無力感も覚えるし、どうしようもない気もしてくる。だけど本当に変えたいなら、世界をよくしたいなら、それしかないんだと思う。だから僕は植松さんにも、もっと本気を出してほしかったと思う。そんなふうに逃げないで、歪めないで、もっと考え抜いてほしかったと思う。そうしたら、僕だってなにか協力できたかもしれないのに。

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