今僕は、彼のことを「さん」付けで呼んだ。これには相当な葛藤や迷いもあった。ここまでは考えた末「被告」付けで呼んでたけど、本当は呼び棄てるべきなのかもしれないとも思った。あるいはもっと「狂人」として、「異様な怪物」として扱うべきだと思うひともいるとは思う。でも「相手と通じ合えることを諦め、相手を『モノ』のように、『異様な存在』のように扱い、それを排除する」っていうことを選んだら、それこそが「彼の思想を追認してる」ことになるんじゃないのか?そしてそんなことをしたら、またいずれ必ず、似たような事件が起きるんじゃないのか?というかもうそれは、そこらじゅうで起きてることなんじゃないのか?
だから僕は、この事件を本当の意味で拒絶し、彼の思想が拡がることを断固として拒否するためにも、彼を人間として見ることを選ぶ。そして彼には本当の意味で、罪を償ってほしいと思う。ずっと、考え続けてほしいと思う。
そして僕自身は、「しょうがい」を基本的に「障碍」と書くことを選んでいる。この「碍」の字は「礙」の略字で、「石の前で(道を塞がれて)困っている様子」を表している。つまり障碍は、「個人と社会(環境)の間に存在する石・壁」なんだ。そしてこれが、社会モデルの発想なんだ。僕は、それを選んでいる。
そしてこれは、今までの伝統的な医学モデル・個人モデルに対して
「これは誰かの問題なのか、みんなの問題なのか?」
という問題を浮き上がらせてくる。もっと言えば、
「あなたもこの問題の当事者だと思いますか?」
というのがこの問いの核心にあるんだと思う。だからもういちど、改めて訊いてみたい。
「これは誰かの問題でしょうか、それともみんなの問題でしょうか?あなたもこの問題の当事者だと思いますか?」
僕はもちろん、これを僕の問題として、僕たちの問題として受け止めている。だって、ここは僕たちの世界なんだから。僕が脳性麻痺だから、当事者なんじゃない。誰でも、みんなが、「障碍当事者」なんだ。