秀樹さんは「迷惑をかけて申し訳ないね。トップ(Sさんは施設長なので)がこんな対応をするなんて、会社にとっては損失でしかないよ」と話し始めた。長年、営業のトップとして、管理職をしていた秀樹さんらしい発想だ。このとき、Sさんは初めて、秀樹さんが自分の帰宅願望に自覚があるということを知る。
「なぜ、突然、帰りたくなっちゃうんですか?」と聞くと、秀樹さんは「自分でも分からない。胸の中からわーっと湧き上がってきてどうしようもなくなった。でも、これじゃいけないよね。家に帰ると女房も休めないし、それにきっと施設にいても迷惑だろう?」と涙ながらにいう。
「何でそう思うんですか?」とSさんが聞くと
「とにかく忘れちゃう。気が付かないうちに失敗したりおかしな行動をしたり。仕事をしていた頃もそう。だから、いつも周りの人の顔をうかがって、自分の行動の答え合わせをしている。
だって、記憶がないわけだから、他に確かめようがない。自分という存在が常に不確かでそれが精神的にきつい。仕事を辞めた後だって、女房が変な顔をしていて、また何かやっちゃったなって思うんだ。
すごく怖いよ。真っ暗な舞台で一人だけスポットライトが当たっているみたいに感じる」

「それにね、家のことが妙に気になって、欠席裁判されたら(妻や娘夫婦が、手がかかるからと、秀樹さんの施設入所を勝手に決めるんじゃないか)どうしようって考えちゃうんだ」と答えた。
Sさんはその言葉を聞いて、秀樹さんの不安や恐怖が初めて分かり、泣いてしまった。
秀樹さんは結局、Sさんの事業所に2か月間しか通うことはなかった。施設への入所が決まったからだ。Sさんは気になってしまい、そのグループホームの見学に秀樹さんと一緒に行くことにした。
Sさんは「施設の管理者の仕事があるので、住み込みでやってみないか」と説明した。だが、その説明はもちろん施設に入所してもらうための嘘なので、Sさんは秀樹さんが納得するのだろうかと不安に思った。
そこで施設の見学の際、Sさんは「この施設で管理者として働くことはどうですか?」と聞いてみた。
秀樹さんは「どうもなっていない会社だね。ブラック企業なんじゃないか」と答えたが、入所すると意外にもスムーズになじんでしまった。後に秀樹さんは「ダメな会社だけど、自分がいい会社に変えていくんだ」とやりがいをもって積極的にスタッフの仕事を手伝う入居者になっていったとSさんは知り安堵した。
認知症は別人になってしまうわけでも、常に症状が出ているわけでもない。Sさんのように自分の症状の進行を自覚できるタイプの人の方が、恐怖感は強く、自信を喪失するだろう。
男性は特に、仕事ができることに価値を置いているので、徘徊の理由が「通勤」だったり「営業」だったりと仕事にまつわる理由なことが多い。
認知症の人の恐怖がより伝わってくる取材だった。
※内容は事実関係や取材に基づいていますが、個人特定を避けるため、人名・地名・関係者名などは個人情報漏洩を避けるため一部事実と異なります。
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